月刊「Ij」連載「ヴィンテージマン」完全版 CASE.5 西村修
縫製工場から日常的に生産される無数のジーンズの中から、後世、想像を絶する高値でマニア間を行き来する「ヴィンテージ・ジーンズ」なる希有なアイティムが存在する。同様に、幾重にも重なる思考を駆使し、職業(被服)を越え、オンリーワンな文化として昇華させる希有な人々が存在する。そんなレアな存在を人は「ヴィンテージウーマン」と呼ぶ!

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 その日の九十九里浜は♪真冬のサーファーはまるでカラスの群れの様さ♪の一節通り、カラスと、空が織り成す絶妙なモノトーンのグラデーションが相俟って、プロレスラー西村修氏(以下敬称略)がリング上で見せる憂いに富んだクラシカルなムーブと見事に重なった。
 西村修を語る上で、避けられぬ事柄として、腹膜腫瘍からの奇跡の復活がある。
 「病気になった時は、進路の変更も当然考えさせられる訳です。直後は『本を書いてくれないか?』なんて話も沢山あったんですが、私は、あんまりお涙頂戴的なキャラクターで露出する事は好きではないんです」
 生死を彷徨った事象を、まるで朗読の様に落ち着いたテンションで語る、この男の芯の強さとは一体、何なんだろう?
 「病気による陰という物が、逆に色気にも通じる訳なんです。それがプロレスの1つの魅力でもあるんでよね」
 手術後、西村修は、西洋医学に敢えて頼らず、インド、中国等の東洋思想を体現すべく旅に出た。勿論、その旅路の中、病気と闘ったのだ。
 話は前後するが、ペンシルバニア州での近代以前な生活も、彼の旅路の重要な出発点と思える。
 「アーミッシュの所へは病気以前に既に行ってるんですよ。97年のヨーロッパ遠征でドイツの文化に非常に影響を受けたんです。プロレスで言うと、日本では、パワーだとか、気迫、ルックス、若さが人気の対象と成っていたのですが、ドイツ人は表面的な物は見向きもしない。戦法、技術、を中心にベテラン選手を評価するキチンとしたピラミットが形成されているんです。実に頭の良い国民性だと思いました。洗濯機にしても最小限の電力、水量で済む様に設計されてる訳です。質素、勤勉ということが皆に刷り込まれているんですね。そんな事が切っ掛けで、ドイツ、スイス移民の多いペンシルバニア州のアーミッシュ・コミュニティーに短期間ホームスティしたんです。そこは、未だに馬車だとかロウソクの近代以前の生活でしたね」
 「プロレスの範疇を超えたあなたと気が合うレスラーとかいるんですか?」と、瞬間、過ぎっただけの疑問を俺は訊く。
 「価値観の合う人はレスラーの中にはいないです(キッパリ)」と、俺の反則技をスルリと躱し「昨今の、無意味に多く繰り出すプロレスの技を文明に例えるなら、それとはまったく正反対の生活を送るアーミッシュにもの凄く引かれていった訳です」とキッチリ返し技で丸め込まれ、呆気無く3カウント……。
 そんな変わったプロレスラー、西村修にとって生業プロレスとは何なのだろう?
 「93年から2年間の海外初修行のアメリカでは、兎に角、体を大きくする事を考えました。いざ100キロ位になった時、そんな体の奴は何処にでもいるという事を痛感する訳です。芸術的な作品をプロレスで造ろうと思ったら、100点か0点でしか感動は生まれないんですよね。そこで、人と同じ事をやっていても無意味ですから、敢えてウェイトトレーニングはしないとか、人とは違う方向へと行った訳です『100〜0の理論』なんて自分では名付けてるんですけどね」
 西村修の人生、全てとも言える仏教用語「無我」そこに「中庸」「修道」という中国思想を混ぜ合わせ、独自にアレンジメントした物が、西村流「無我」なんだと俺は思う「100〜0の理論」は、バランス、振り幅が非常に大切だと言う事の様に俺には聞こえるのだが。
 「無我の思想は絶対に合ってると思ってますから。リングの上には反比例する鏡って物が有るんですよ。分かりやすく言うと、技を出せば出すほど、一発一発の技が効いて無い様に見えるんです。早く動く事はコンディション的には素晴らしいのですが、軽く見えたりもするんです。そんな中でレスラーはお客さんの感性と勝負してるんです。技を駆使しながら、コントで言うヒッパル技術が必要なんです。シャンパンに見立てると分かりやすいと思うのですが、炭酸ガスを溜めるというか。当然、その栓を引き抜く技術も必要なんですがね。ビルドアップを徐々にしながら。水戸黄門戦法というのかな?(笑)」思想家の顔が揺るんだ所を見計らって「8時45分まで必殺技は見せない!」と鮮度0なギャグを挟むも、西村修は微動だにせず、滔々と続ける「カタルシスは1回しか見せないという。今のプロレスはドラマになって無いと言っていいでしょう」
 西村修と言えば、強烈無比な語録がある。かの「ファンは馬鹿です」がそれだ。
「大変な反響がありましたね〜、悪い方の(笑)」そりゃ〜、そうだろう……「ドイツから帰ってきて、欲望のままに刺激を欲しがる日本のファン気質に疑問を感じたんです。勿論、それに考えも無く応えようとするレスラー側にも大いに責任はありますよね。映画も車も全部過剰なんです。今の007もそうだな〜(笑)時代に合わせ過ぎなんです」
 一切ブレずに「無我」へ帰着するバランスを、ほんの少し揺さぶれないかと、ウェブで拾った怪情報をぶつけた。
 「主演映画『いかレスラー』同様、桃源郷、パキスタン:フンザでの修行があなたを甦生させたとの話が、夙に有名なんですが?」と俺は大真面目に訊く。
 「それ、よく言われるんですが、行っていません(キッパリ)ガンジス川に行って死に対しての恐怖がホントに無くなったのは事実です。すぐ近くで、人が燃やされているんです。眼球は沸騰し、周りでは親戚達が泣いているんです。ベナレスです」
 また、ガセネタを掴まされてしまったと凹む俺……。
 ここ数年、西村修のインドへの興味は、伝承古代医学・アーユルヴェーダに移行している。黙浴、ヨガと同列に並べられ、「反省」「祈り」の二つが重要な要素として内包する。特にオイルマッサージの効果は素晴らしく、内臓まで沁み込んだオイルが老廃物を排出し、身体を見事に蘇らす。
 「人間というのは細胞レベルで動いていて、外気に当たる。仕事のストレスがある。食事をする。人と会話をする。そんな時の細胞の動きを、シリンダーのピストン運動に例えるんですよ。オイルはシリンダーの潤滑油な訳です。極論としてオイルマッサージは『魂の潤滑である』という深い思想があるんです。強いては人生までも滑らかに行くと言うね」
 「無我」…うむ…。深過ぎて俺には理解不能な2文字。それを察っしてか?インタビュー後、西村修は自宅に俺を招き入れビールをごちそうしてくれた。I・potを駆使した、ヤンキースタジアム完全再現は絶品!表情は純な野球少年に一変し、只管MLBの魅力を語る。やがて哲学者は宣う「私は、みのもんたさんみたいに、ややっこしい事は言いませんから(笑)」
 いや〜、俺にとっては十分に、ややっこしいのだが……(笑)

○今回のゲスト

写真:五十嵐和則
西村修(プロフェッショナル・レスラー):プロフィール
新日本プロレス学校を経て、'90年4月に新日プロ入門。沖縄・糸満市西崎総合体育館における飯塚孝之戦でデビュー。'93年3月の第 4回YL杯に準優勝後、同年8月に米国武者修行に出発。'95年10月 に帰国し、藤波の自主興行『無我』にもレギュラー出場した。'97年 5月、海外再修行へ出発し、欧州CWAマットに参戦。'98年1月4日 東京ドームに凱旋帰国。同年2月、 IWGP ヘビー級王座に初挑戦。 その後、後腹膜腫瘍により欠場。病魔に冒されながらも試合可能なまで回復し、2000年6月2日武道館大会で藤波戦で復帰。2006年1月24日に新日本プロレスを退団。フリーバード(フリーランス)として「地位や名誉などいらない。本当のプロレスをしたい」とフリーとして世界中にある数多の団体のマットに上がることを宣言した。同年8月2日、後楽園ホールで西村修+田中秀和自主興行『新無我伝説 エピローグ~BLACK CAT MEMORIAL 』を行い、ヒロ斉藤と対戦した。 これを契機に、藤波辰爾ら元新日本プロレスのフリー選手や田中秀和とともに新団体、「無我ワールド・プロレスリング」を設立。


○次回ゲスト
岡崎友紀さん(女優、シンガー)を予定していましたが、版元に緊急事態が発生し、現在連載は休止中です。


イラスト、インタビュー&文
SOHMEI ENDOH(ソウメイ・エンドウ)
プロフィール
1960年静岡県生まれ。DJ、音楽雑誌編集、ほぼニートな自称芸術家等、超不安定な職業を転々とした後、1985年よりイラストレーターを生業とする。木版画を中心に、CDジャケット、雑誌、広告等で生計を辛うじてたてる。1990年より連載開始した「カシャ」(竹書房)を切っ掛けにライター業も兼ねる様になる一方、DJ、飲食店プロデューサー、イベント・オーガナイザー、店舗空間デザイン、撮影美術家と相変わらずの「合わせ技一本!」な毎日。自身のジャンクな生活態度を省みず、オーガニックな生活を真摯に提案するフリーペーパー「88」の表紙画で、その存在をかろうじて忘却されずにいる。オフィシャルサイト(http://www.c-channel.com/c00201/)ブログ「黒猫の単語」(http://sohmei.exblog.jp/)
# by sohmeiID | 2007-04-08 23:04 | 連載「ヴィンテージマン」
月刊「Ij」連載「ヴィンテージマン」完全版 CASE.4 矢追純一
縫製工場から日常的に生産される無数のジーンズの中から、後世、想像を絶する高値でマニア間を行き来する「ヴィンテージ・ジーンズ」なる希有なアイティムが存在する。同様に、幾重にも重なる思考を駆使し、職業(被服)を越え、オンリーワンな文化として昇華させる希有な人々が存在する。そんなレアな存在を人は「ヴィンテージウーマン」と呼ぶ!

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 少年期、俺を日常なる現実から宇宙に解き放ってくれたのは、手塚治虫、円谷英二、そして、今、目の前にいる、矢追純一氏(以下敬称略)その人だった。
  「UFOなんてどうでもいいんですよ」と矢追純一は無頓着に言い放つ。どうしてこんなにも全ての事象に対して執着が無いのだろうか?その訳は、少年期に体験したスーパー・サバイバルな2年間が、大きく影響している。
 矢追純一は満州で生を受けた。父親は建設省局長。だが、そんな親の威光とは裏腹に、病弱体質にヒキコモリ。たま〜に登校すればいじめられ、それが嫌で偽登校。使用人の部屋に匿ってもらい、父親所有の書籍をひたすら読み耽るという暗〜いガキだったそうだ。だが、終戦を待たずして状況は一変する。敗戦1年前に父親を亡くし、翌年、運命の玉音放送。
 「目が覚めたら中国人の使用人達が枕元に現れて『お前達は負けたんだから我々の国から出て行け!』と言うんだよ。母親、妹2人と着の身着のままで放り出された。住む所は無いし金も無い。1万円札が只の紙切れになった訳だから。そうなった時、お札程始末に終えない物は無いね。固すぎて鼻は勿論ケツも拭けない。まさにクソの役にも立たないわけだよ(笑)仕方無いから今度は暖を取ろうと思ったら、燃えやすいもんだから、あっという間に消えちゃう(笑)」
 そんな矢追家の苦境を救ったのは「世界で一番凄い人」と矢追純一自身が何憚らず形容する母親だった。セレブを絵に描いた様な母は、終戦を境にガラッと人格が変わる。
 「『今までは良い生活をしていたかもしれないけど、今日から私達は乞食です!私も、自分が食べて行くので精一杯なので、あなた達の面倒は一切見ません。自分の食べる物は自分で稼いで来なさい!』と言い渡されたんだよ。俺は即、おふくろの着物を持たされて『売ってこーい!』だからね(笑)昨日まで虚弱体質の奴が。売ってこないと家に入れてくれないんだよ(苦笑)」
 「食べるのもやっとの時代ですよね〜?」と、俺が安易な想像だけで相槌を打つと「ウチは食べる物に困った事はないよ!その頃ギンシャリ(白米)食っていたのはウチだけだったんだから!」と軽めのお叱り…。貧しいながらもギンシャリを食べていた矢追家の奥義とは、一体、何だったのだろう?
「自分の所の着物やら売ったりしてると、周りのお嬢様やら奥様が『ウチのも、売って頂けないかしら?』なんてやって来る訳さー。それを売ってあげる。それから1部屋しかない部屋を半分に仕切って夫婦ものに貸したりね。あと、ある時、お風呂場のドアを開けたら、血だらけの大きな物体が血をダラダラ垂らしながらぶら下がっているの。おふくろに訊いたら、あっさり『牛を半分買ったきた』って言うのね。夕方、それを細かく切って近所の人に売ってる(笑)凄いおふくろだよね!」
 以後、2年間に渡り「世界で一番凄い人」の指揮下、矢追純一は強靭な精神力を持った少年へと大変身を遂げる。
 「180度変わったね。敵地の真っ只中に取り残された日本人な訳じゃない。アメリカの命知らずな海兵隊がまず入って来て、ロシアからも第一線の兵士が入って来た。こいつらは前科が有る様な奴ばかり。中国人は『今までの恨み晴らさずおくべきか〜!』と、とんでもない状況なんですよ。ある日、友達と2人、敷石に腰掛けて、娼婦が大量に売られて行くのを見ていたらさー、ロシア兵が強盗をする所に、同じロシアのGPUが奴らを取り締まりに来た。暫くすると撃ち合いが始まって。西部劇を生で見ている様で子供の俺には面白かった。まあ、それが日常だったんだよな。そのうち強盗犯をGPUが撃ち殺して脳みそが飛び散る訳。ワッー!と思って隣にいる友達を見ると寝ている感じで項垂れているのよ。揺り起こしても反応が無い…。結局、流れ弾が当たって死んでたんだけどね…」
 余りに過酷な話に実感が沸かない俺は「さぞ…悲しかったでしょうね?」と黒柳徹子的ステロタイプなレス…。
 「そんな悲しんでる暇なんて無いですよ!そんなナイーブな人間では生きて行けないです!目の前で人が死ぬ事に麻痺してるんだよ、日常になっていると言うか。死んだ子と俺の間には30センチ程しか距離の差は無い訳だしね。だから、もうそうなると人間じゃないよ。豚とかと一緒。だから死ぬ事は当たり前の事なのね。今でもその死に対する認識は変わらないです」
 矢追純一の迫力に腰が引けながらも「帰国後は捨てた身なんだから、後は自由に生きよー、とか、やはり思ったんでしょうか?」と青息吐息で俺は訊く。 
 「深い想いは無かったけど、金も命も財産も名誉もね、意味が無いと。一晩で無くなっちゃったんだから。そういう物に対する執着は一切無くなったよね」
 帰国後、満州サバイバルで磨いた「30センチの奇跡」を連発し、中央大学法学部、日本テレビと喚問を突破「怪奇ディレクター」「UFOディレクター」他、多くの称号を視聴者から授かる。
 「中国で、核ミサイルが日本に向いてるのを目撃したのがUFOに魅かれたん理由ですよね?」と、一夜漬けの知識で果敢に核心に俺は突撃するが…間髪入れずに「誰がそういうデマを流すのかな〜!?」と不愉快そうな矢追純一。「えっ?凄いカッチョイイな〜と思ってたんですけど……」と俺はどうにもシドロモドロ。
 「完全にデマだな(キッパリ)元々、興味なんて無かったんですよ。最初ホームドラマやっていて、最後に家庭崩壊とかさせちゃう。当然、視聴率なんて取れない(笑)その後、深夜番組の走りって感じで『11PM』に局内の除け者が集まったの(笑)で、何やってもいいって言うんだよね。その頃、既にいろんな国に俺は行っていて、日本人の視野の狭さが非常に気になりだした。日本人てグウタラ歩かないで一点を見つめてタッタッタッ、と歩くでしょ?このままでは日本は行き詰まるぞ。たまには、立ち止まって空を見ようよ!って言いたかった訳」
 視野か…。確かに矢追純一の言動、作品共、生死、善悪の2元論を超えた、超俯瞰からの良質な非常識の固まりだ。
 「人間的にレベルが高いと言うのは、どこまで色んな事を許せるかという事だと思うんです。許容量というのかな?地球を宇宙から見る様な視野が無いと、やっぱり人間として駄目な訳ですよ」
 常識だらけの、このバビロン。物事を非常識に楽しむ事がどれだけ多くの人々の心を解き放つか知れない。それこそ真の意味でのエンターテイメントだ。否、宇宙人がくれた贈り物なのだ。

○今回のゲスト

写真:松本秀明
矢追純一(テレビディレクター&宇宙塾主宰):プロフィール
中央大学法学部法律学科卒業後、日本テレビ放送網入社。「11PM」「木曜スペシャル」などを担当し、UFO及び超能力番組のディレクターとして活躍。同社退社後、矢追純一オフィスを設立。現在はフリーのディレクター、プロデューサーとして活躍中。3月20日(火)に横浜みなとみらい横浜美術館にて、矢追オフィス協賛の「超一期一会ライブ」を開催。また自らが講義する「矢追塾」も開講している。http://www.spa-cian.net/


○次回ゲスト
西村修(プロフェッショナル・レスラー)


イラスト、インタビュー&文
SOHMEI ENDOH(ソウメイ・エンドウ)
プロフィール
1960年静岡県生まれ。DJ、音楽雑誌編集、ほぼニートな自称芸術家等、超不安定な職業を転々とした後、1985年よりイラストレーターを生業とする。木版画を中心に、CDジャケット、雑誌、広告等で生計を辛うじてたてる。1990年より連載開始した「カシャ」(竹書房)を切っ掛けにライター業も兼ねる様になる一方、DJ、飲食店プロデューサー、イベント・オーガナイザー、店舗空間デザイン、撮影美術家と相変わらずの「合わせ技一本!」な毎日。自身のジャンクな生活態度を省みず、オーガニックな生活を真摯に提案するフリーペーパー「88」の表紙画で、その存在をかろうじて忘却されずにいる。オフィシャルサイト(http://www.c-channel.com/c00201/)ブログ「黒猫の単語」(http://sohmei.exblog.jp/)
# by sohmeiID | 2007-04-08 22:45 | 連載「ヴィンテージマン」
月刊「Ij」連載「ヴィンテージマン」完全版 CASE.3 サンディー
縫製工場から日常的に生産される無数のジーンズの中から、後世、想像を絶する高値でマニア間を行き来する「ヴィンテージ・ジーンズ」なる希有なアイティムが存在する。同様に、幾重にも重なる思考を駆使し、職業(被服)を越え、オンリーワンな文化として昇華させる希有な人々が存在する。そんなレアな存在を人は「ヴィンテージウーマン」と呼ぶ!

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 取材冒頭。サンディー女史(以下敬称略)は、略歴の確認上、ルーツに話が及ぶと「微生物なの…」と、はにかみながら呟き、その話題をシャットアウトした。
 不思議な時間だった。けっして神懸かりとか、彼岸の世界に入り込んだとか、そんな意味ではない。第一、サンディーの話に耳を傾けるのは楽しかったし、時折、口ずさむ極上の、唄やラップの一節は役得以外の何者でもなかった。
 だが、正直、彼女が終始操る、メタ言語?タントラ?は、最後まで俺には一般にいう日常会話と違う代物だった。
 それは、見えないモノが見える希人と、見えるモノしか実感できない俗人の永遠の壁でもあり、まだまだ乗り越える事象の多さに、俺自身がとてもサンディーの、一言一言を噛み砕く余裕がなかったからだと、今にして思う。
 取材時に録音されたサンディーの言葉の数々は当然残っているし、それを単に列記する事も可能だ。しかし、筆者の俺が、どこまで、その言霊を理解したか相当怪しい中で、会話として書く事は、あまりに痴がましい。そんな自身の事情も踏まえ、敢えて記録に頼らず、今だに俺の記憶に刻まれた、サンディーの幾つかの言葉を流用しながら、可能な限り、その不思議な時間を伝えられたらと思う。
 日本のポップス・シーン中、本当の意味で海外チャートを席巻した女性シンガーは、サンディー以外にいない。オーストラリアでの「スティッキー・ミュージック」のスマッシュヒット「アイルマタ」でのマレーシアン・グラミー賞受賞の例を出すまでもなく、80〜90年代、洋楽ベースに音を追う、俺の様な「音キチ」が、唯一、海外との壁を感じずに、オリジナルなアイディンティティーを実感出来るのが、日本の至宝サンディー、その人だった。
 そんな、俺にとっては、途轍もない実績の数々も、サンディー自身は「前世の出来事」と、アッサリかたづけてしまうのだが…。
 96年「サンディーズ・ハワイ」を境に、10才までいたハワイの古典的音楽に突然シフトを変えた時は、俺を含め、多くの音楽ファンは流石に驚いた。
 「何か、大きな出来事があって、ルーツに還ったのでしょうか?」
 「いいえ、とくに大きな出来事とかはなかったわよ。ただ、昔、書いた日記を読み返していたら、ハワイに行き着いたって感じかしら?」
 「日記を書くんですか?」
 「ええ。日記を読み返していたら、オーストラリアのツァー中に、ビール瓶が沢山飛んできた事があって。その晩、ホテルのバスルームで泣きながらシャワーを浴びていると、不意に口ずさんでるのがハワイアンだった。気が付くと気分がスッーと楽になり、不思議な事に翌日のステージは最高なものになった、なんて出来事が書かれていたの。その日の日記を読み返した事も、再度ハワイに導かれた理由かもしれないわね」
 再度のハワイ行きはサンディーのニュートラルな本人の思考とか裏腹に、人生の大きな分岐点となる。
 後にフラの師となる、クムフラ(フラの正統的継承者)パティ・ケアロハラニ・ライトと運命的に出会い、サンディー自身もクムフラとなるべく、9年間の修行に入る。
 サンディーが醸し出す優雅なヴァイブと「修行」という、妙に肩の力が入った言葉のニュアンスに合点はゆかない俺は「やっぱり、修行って…修行な訳ですよね?」と定まらない焦点で尋ねる。
 俯いた長い時間の含み笑いの後「そう。修行よ(笑)」とサンディー。
 「密教とかネイティブアメリカンみたいな?」
 「密教。だから内容は言えないの」
 カルロス・カスタネダが書き綴った「呪術師と私」における、導師ドンファンと著者の大いなる意識の異差を垣間見るようなサンディーの余裕の微笑みに、俺はその内容を細々と聞くことは途端に諦めた。
 カスタネダと違い、唯一救われたのは、目の前にいるのが、厳つい初老の呪術師ではなく、聖なる美しいクムフラだった事か?
 厳しい修行の話題で、俺の彼方の世界への扉が半開きになったのか?急に昨晩、目を通したサンディーのプロフィール「2005年、クムフラの称号を授かり帰国後、伊勢神宮内、猿田彦神社おひらき祭りで奉納フラ」との事項が蘇り、ここで一旦、話が前後する。
 「おひらき祭りとは、すごく縁があって、それ以前に、すでに踊っていたの。クムフラの修行を本気で始めるかどうか悩んでいた時期で、そのパフォーマンス中、夜空を見上げたら、それまで雨雲が籠めていた空が一瞬にして開け満天の星空に変わり、悲しくもないのに、一筋の涙がスッと頬を伝ったの。実はその時、決心が固まった」
 9年に及ぶ修行のクライマックス、ウニキ(卒業式)について、俺は、長年、挿絵を担当している、エッセースト川内一作氏の書面で既に読ませていただいている。
 そこに、気になる一節がある。
 ——パティ・ケアロハラニ・ライトは白人である。(中略)そして今チャントを唱えているサンディーは日本人とアメリカ人のハーフである。しかし、ハワイアンの血をまったく受け継いでいないこの3人が生み出すセッションを見守っている数十人のクムフラはハワイアンである。——
 「話がルーツに戻ってしまいますが、純粋なハワイアンでない貴方が何故クムフラを目指したのでしょうか?」
 熟考しているのか?暫く沈黙は続いた。
 徐に「この地球の核から凄いエネルギーが地上に向かって吹き出しているの。同時に空からも同様に地上に向かってエネルギーが降り注がれている。そうして、この地球は今の形を保っている。私は其処に住まわせて頂いている微生物なだけ」
 「地球人ということですか?」
 「そう」サンディーは微笑んだ。
 「フラは手が非常に大切なんです。心の中に大きな想いをこめて、ブラジルに向かって手を翳す。そうすると本当にブラジルに想いが届くのね」
 実際に振りを付けながら語る、そのムーブは恐ろしい程に美しい。取材中とはいえ、俺の拙い文面より、そのパフォーマンスを見聴きして欲しいと心底思った。
 「原稿書けたらメールでお送りします」
 「そう。でも私、喋ってる事忘れちゃうから。だって300歳だもの(笑)」
 忘れちゃっても構わない。貴方は、言葉も時間も超えた存在なのだから。
 その夜、原宿駅に向かう、俺の足元は冬だというのにやけに暖かかった。


○今回のゲスト

写真:五十嵐和則
サンディー(シンガー&古典フラ伝道師):プロフィール
シンガー/クムフラ(サンディーズ・フラスタジオ主宰)。青春時代をハワイで過ごし、1974年より日本での活動を開始。ワールドワイドな素養と様々なジャンルを吸収した女性ヴォーカリストとして、世界中で脚光を浴びる。現在も、アロハとピースの伝導師として活動と進化を続ける。さらにクムフラと成っての初DVD作品「Sandii's Melehula Love2 Pacific」がソニーミュージックより好評発売中。http://www.sandii.info/


○次回ゲスト
矢追純一(テレビディレクター&宇宙塾主宰)


イラスト、インタビュー&文
SOHMEI ENDOH(ソウメイ・エンドウ)
プロフィール
1960年静岡県生まれ。DJ、音楽雑誌編集、ほぼニートな自称芸術家等、超不安定な職業を転々とした後、1985年よりイラストレーターを生業とする。木版画を中心に、CDジャケット、雑誌、広告等で生計を辛うじてたてる。1990年より連載開始した「カシャ」(竹書房)を切っ掛けにライター業も兼ねる様になる一方、DJ、飲食店プロデューサー、イベント・オーガナイザー、店舗空間デザイン、撮影美術家と相変わらずの「合わせ技一本!」な毎日。自身のジャンクな生活態度を省みず、オーガニックな生活を真摯に提案するフリーペーパー「88」の表紙画で、その存在をかろうじて忘却されずにいる。オフィシャルサイト(http://www.c-channel.com/c00201/)ブログ「黒猫の単語」(http://sohmei.exblog.jp/)
# by sohmeiID | 2007-01-12 16:26 | 連載「ヴィンテージマン」
月刊「Ij」連載「ヴィンテージマン」完全版 CASE.2 松本玄人
縫製工場から日常的に生産される無数のジーンズの中から、後世、想像を絶する高値でマニア間を行き来する「ヴィンテージ・ジーンズ」なる希有なアイティムが存在する。同様に、幾重にも重なる思考を駆使し、職業(被服)を越え、オンリーワンな文化として昇華させる希有な人々が存在する。そんなレアな存在を人は「ヴィンテージマン」と呼ぶ!

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 極度の引っ越し魔だ。アートディレクターの松本玄人氏(以下敬称略)が、又しても事務所を移した。
 日常的に自身をResetする行為を仮に「引っ越し」というならば、その最終行為である「塀の中」への「引っ越し」はRebornを求めた結果だったのかも知れない。
 松本玄人と出会ったのは80年代後半だったと記憶する。既にデザイン業界の「超新星」として多忙を極めていた中、俺がDJをやっていた恵比寿の某店に疲れを癒しに頻繁に顔を出してくれた。そんなフランクな出会いが幸いしてか?デザイン界の大御所となった今でも気軽に口が利ける数少ない著名人。ゆえに筆者のタメ口調は、多少、目を瞑って頂きたい。
 新事務所は抱える仕事量に反し、モノを最小限に押さえたシンプルな空間。俺のために、自らコーヒーを入れながら松本玄人は徐に口火をきった。
 「ナカの話、聞きたいんでしょ?」
 「えっ?良いの?」ギョとする俺に向かって「全然かまわないよ」と平然と答え、挽きたての芳ばしい香りを放つカップを机の上にポンと置く。
 じつは、松本玄人は我が国の交通法規を大きく犯し、8ヶ月間、交通刑務所に収監されていた。勿論その話を聞き出す事が、ある種、俺に与えられた任務だとは十分自覚はしていたが、当の本人を目の前に、こうもあっさり切り出されると、旧知の俺でも流石に腰が引ける。まあ、本人の許しも出た事だし、まずはこんな質問から始めた。
 「デザイン賞の審査員、美大講師とか、ある種の公人が、こんな事になってヤバイな〜、とかなかったの?」
 「どうでも、い〜んじゃない。例えばさ〜、テレビなんかも出ていたけれど、テレビに出たらちゃんとしなくちゃいけないとか。普段ちゃんとしてないわけでもないから(笑)」と、俺の平民的心配事を瞬時に一蹴する。
 「運転できるスキルさえあれば当然運転していいとかって認識だったのかな?」
 「いやいや、その辺はちゃんと反省してるよ(苦笑)実際、来年の3月には免許が再度取れるようになったし」
 俺の知る大胆な「松本玄人」と「反省」という2ワードが、どうも頭の中で結びつかず「具体的にどう反省したの?」と、頭中そのままの疑問をぶつけてみた。
 「反省って言うていうかさ〜、交通刑務所がホントに面白かった!環境も勿論そうだし、人って素になると果たして何処に向かうのか?とか。全てに理由があるんだよね」
 それ「反省」かな〜?稀代のクリエーターの高度な思考にはとても付いて行けない……。禅問答していても埒が明かないので、下世話な話題に即スイッチ!
 「ナカでは勤労とかするわけ?」
 「俺、ハイヒール!(笑)」
 「……?」完全に意味不明な俺。
 「ハイヒールを作るのよ。俺、凄い上手いよ!適性検査とかあって手先が器用な人とかが選ばれるわけね」
 何かが松本玄人に閃いたのか?さっきまでの哲学者然とした表情が俄然緩み、イタズラを企む少年の顔に変わる。自身のデスク周辺から数冊の本とノートを物色し、俺に差し出した。手渡されたのは、花輪和一のコミック「刑務所の中」と、3冊の丁寧に保管されたキャンパスノート。
 「これ貴重だよ!刑務所の中に入った『刑務所の中』だからね!」(双方爆笑)
これが、イタズラを企む少年の顔の答えだったのか(笑)
 「これ、中でマジで読んでたの?」と無垢なイタズラに付き合う俺。
 「そりゃー読むよ!何事も勉強!勉強!この本は囚人の間で凄い人気だったな〜!」
 次いで三冊のノートをめくると、丹念に書き綴られたデザインスケッチと、心象描写的文面。ここに描かれたデザイン案だけで、幾らのデザイン料が取るんだろう?と、下衆なソロバンを弾く俺に「それ良いでしょ!チーズ凄い食いたくてさ〜。ボールペンだけで描くから結構難しくてね」と、チーズの細密デッサンに屈託のない笑顔で解説を加える。
 驚くのは、その全てのページが完全にデザインされていて、そのまま書籍として出版できる完成度だという事。
 ふと、ノート3冊の表紙にふられている、ある数字が気になり「466?」と、怪訝そうに俺が聞く。
 「ノート買ってから2週間位待たされて、それから全部のノートにノンブルふるの。囚人番号466。だから俺のいまの携帯メールアドレスとかそれにちなんで、全部、466繋がり!(笑)」
 昨今の松本玄人は予想に反し、入る前より多忙との事。到底、夜遊びまでは行き着く暇もなく、スタッフと自身の健康も考え、バスケットボールとサーフィンに少ない余暇を割当てている。
 「強いて言えば、どっちが面白い?」
 「バスケだな!」瞬時の答。
 「動きが可笑しい(笑)あれ上向くじゃん。あんなに上見てやるスポーツってないよな。それで凄く個人プレー。あと決定的に違うのは、サッカーとかサーフィン、スキーとか足元が不安定なスポーツってのは、頭の中で音楽が鳴るだよね。バスケはドリブルの高速なリズムが支配しちゃうんで、俗に言う音楽になりえないんだよね。サッカー経験者に聞くと試合中、必ず鳴るっていうの。例の『うつむくなよ〜ふりむくなよ〜♪』って奴が(笑)」
 その後、サッカー好きな俺は、海外リーグの話に花を咲かせるも、どこか、身体性に関する臨場感が松本玄人とは違う。
 「他のスポーツも見たりするのかな?」
 「俺はやった事あるスポーツしか見ないんだよね」なるほど、そこがどうも感覚的に噛み合わない原因だ。
 「学生の頃、ハンドボール部だったんだけど、スポーツを真剣にやりだすと、セックスとか全然思考がいかなくなるの。それで、5年間位、ノーセックスの時とかあったもの。まあ、その反動も、その後、当然あるんだけどね(笑)」と、右手で作った上下の波形が宙を舞う。
 松本玄人は例えデザインと巡り会わなくても、何かしらのジャンルで名を成していただろうと俺は漠然とその時思った。
 「出てきたばかりの頃、デザインが固くてさ〜。本来、俺はガチガチにデザインを勉強した方なんで。昔に戻ったっていうか〜。今は丁度良い感じかな。一切の面倒くさいモノがなくて清々しい感じがいいよね」と笑った。
 松本玄人は確信犯だ。
 心底、今の自分に飽き、原点に戻るためには、リスキーな囚人生活も厭わなかった。
 なにせ、逮捕時、着ていた服が、オレゴン州の囚人仕様のパーカーだったというのだから。

○今回のゲスト

写真:五十嵐和則
松本玄人(アートディレクター):プロフィール
アートディレクター。1961年東京生まれ。1983年桑沢デザイン研究所卒業。グラフィックを中心とした様々なジャンルの企画・デザインと、著者、原作者としてデジタルメディアなどの企画制作の2軸で活動する。NEW YORK DISK OF THE YEARグランプリやADC Awards ADC
賞をはじめ、多数の受賞歴あり。



○次回ゲスト
サンディー(シンガー&古典フラ伝道師)


イラスト、インタビュー&文
SOHMEI ENDOH(ソウメイ・エンドウ)
プロフィール
1960年静岡県生まれ。DJ、音楽雑誌編集、ほぼニートな自称芸術家等、超不安定な職業を転々とした後、1985年よりイラストレーターを生業とする。木版画を中心に、CDジャケット、雑誌、広告等で生計を辛うじてたてる。1990年より連載開始した「カシャ」(竹書房)を切っ掛けにライター業も兼ねる様になる一方、DJ、飲食店プロデューサー、イベント・オーガナイザー、店舗空間デザイン、撮影美術家と相変わらずの「合わせ技一本!」な毎日。自身のジャンクな生活態度を省みず、オーガニックな生活を真摯に提案するフリーペーパー「88」の表紙画で、その存在をかろうじて忘却されずにいる。オフィシャルサイト(http://www.c-channel.com/c00201/)ブログ「黒猫の単語」(http://sohmei.exblog.jp/)
# by sohmeiID | 2006-12-03 17:56 | 連載「ヴィンテージマン」
月刊「Ij」連載「ヴィンテージマン」完全版 CASE.1 S-ken
ここでいう、完全版とは初入稿時の原稿を指す。なにせ、1回目の原稿で、完成形すら視界不良な原稿書きというのが正直な所だった。ゆえに、掲載時にない、長文、備考欄を逆に面白がって頂けたら幸いです。SOHMEI ENDOH

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縫製工場から日常的に生産される無数のジーンズの中から、後世、想像を絶する高値でマニア間を行き来する「ヴィンテージ・ジーンズ」なる希有なアイティムが存在する。同様に、幾重にも重なる思考を駆使し、職業(被服)を越え、オンリーワンな文化として昇華させる希有な人々が存在する。そんなレアな存在を人は「ヴィンテージマン」と呼ぶ!

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 キシリトールガムを噛んで歯磨き変わりにした。あとは、待ち合わせ場所の割烹「さいき」で出るであろうオシボリで、洗顔を済ませば、身だしなみはOK!としてもらうだな??………。
 恵比寿で今から会う、ミュージシャン&音楽プロデューサーのS-ken氏(以下敬称略)の下調べも兼ねて、昨夜、S-kenのルーツ、品川宿を舞台とした川島雄三の名作「幕末太陽傳」(1)を見たのがいけなかった……。すぐに下調べなんぞは忘却の彼方。単なる、一映画ファンと成り下がり、翌昼過ぎまでダラダラ見続けた。で、寝坊…。結局このザマだ……。
 東京クラブ・ミュージック界の重鎮と会うには、あまりにお粗末な、自身の「生活の柄」に多少の嫌悪感を抱きながら、駒沢通りをナメクジのように這う。
 (おい、ホントに還暦間近かよ!?俺より全然若々しいよな………)
 数年前「レジオネラ肺炎」という予期せぬ病魔に冒され死線を彷徨った事が切っ掛けに、昨今、全ての移動手段を自転車に切り換えたS-kenは、この夜も繁華街の雑踏を切り裂き、現代に蘇った「未来派」(2)よろしく、俺の前へ颯爽と現れた。
 そう言えば、S-ken人生初の生業は、一般人が未だコンピューターなるエイリアンを見た事もない時代の、システムエンジニアだったはず。そりゃー、未来派の残り香も漂う訳だ。
 S-kenこと田中唯士は、代々、品川の船大工と遊船宿を営む家系にチャキチャキの江戸っ子として生まれた。
 昨夜の「幕末太陽傳」を脳裏に思い浮かべながら、まずは俺のベタ〜〜〜な質問から、その夜の会話は始まった。。
 「なんで、絵に描いた様な、バリバリ江戸っ子のS-kenが、いち早くパンクロックを始めたり、最先端のダンスミュージックを生み出す様になったんですか?」
 「だってオマエ………、そのままだったらタダの品川のおっさんだろ〜!?」
 ヒネリなど全くないショボイ質問をしたばかりに墓穴を掘り、困惑する俺を「ま〜、同級生でそうゆう奴もいるけどさ〜(笑)」と、軽くフォローした後、話は更に続く。
 「どっちかって言うと、こことは違う新しい世界に憧れていた少年時代だったと思うよ。ヨーロッパ回ってアメリカ行って、NYに住んだ後に、東京に帰って来て、江戸文化という失われて行くものに対して再度興味を持ったって感じかな?そういう意味では、九鬼周造(3)とか永井荷風(4)とかと似た視点なんだと思うよ」
 S-kenは当時としては非常に多くの国々を見聞している。エンジニア退職後、伝説の音楽雑誌「ライトミュージック」の編集。それと平行して作曲活動を始め、当時ミュージシャン達の登竜門だったヤマハ・ポピュラーソング・コンテストで多数受賞。71年、名作「自由通りの午後」(5)がポーランド音楽祭の日本代表に選ばれた。それを足がかりに、ヤマハ海外特派員として東欧の秘境ポーランドへと渡った。欧州諸国を廻り、ロンドンからアメリカ大陸へ。ロサンゼルスではボブ・マリーに遭遇。ジャンルとしてのカテゴリーすらままならない「パンクロック」(6)黎明期のNYでは、パンクの殿堂CBGBに入り浸る。帰国後の78年、日本で初めて「パンク」という概念を持ち込んだ「東京ロッカーズ」(7)でフリクション、Mr.Kite、リザード等のバンドと共に精力的に活動。ロックのドメスティックな様式に辟易した83年、キャリアの分岐点となる「ヤングバスターズ」を発表。以降は、世界中のリズムをどん欲に吸収し、S-ken&Hot bomboms名義で東京発のダンスビートを作り続けた。
 「向こう(アメリカ)に行くとさ〜、あいつクール(8)だな!このビート、ヒップ(9)だぜ!とかいう表現で話してるわけじゃない。そういう言い方が、親父とかおばあちゃんが、昔、口癖のように言っていた粋筋(いきすじ)(10)やら、粋な生き方、ってのにクロスしてきて、今の自分の表現が出来上がったんだと思うよ」
 結局S-kenは、何処に行っても粋で鯔背な江戸っ子ってのが身に付いてるんだな〜と、中途半端な地方都市出身者の俺は感心しきり。
 あんまり納得ばかりしていても、ダラーっと平坦な展開が予想されるので、ここらで一発問題定義!
 「S-kenにとって時代の趨勢であったリアルタイムなヒッピー(11)・ムーブメントも含めて、最近のヒッピー・リバイバルやレイブ(12)・シーンとか、その粋筋とは、かなり価値観が違うと思うんですけど?ーー」
 粋人の逆鱗に触れたか!?瞬時に遮る形で言葉が被ってきた。知らぬ間にS-kenのガソリンはビールから日本酒へと変わっている。
 「俺はああゆうの全然ダメ!コミューン(13)作って、田舎行くって、なんか偽善な感じするでしょ!みんな一緒だぜ〜って言って、コミューン内の女を、誰がヤッタかわかんないみたいな………(苦笑)今のレイブ・シーンも嫌いなんだけど、団体に根付いた宗教感みたいなものが大嫌いなんだよね!」
 俺は、あまりの勢いに引け腰となり「やっぱ、個人主義とか、都会とかの方が肌に合う感じなんっすかね〜?」と相づち程度の返答で事の成り行きを見守る。
 「やっぱ都市って、人が一杯集まってきた賑わいの中、ドキドキする場所が幾つも点在するわけよ。路地とかそういうところでね。で、そういうところを紐解いてみると、やれ進駐軍がいたとか、華僑絡みだったとか、白系ロシア人が関わっていたとか、必ず異人が存在するわけ。本来、江戸っ子ってのは少数派で、大多数は地方から出て来た人達でしょ。諸国の人達は江戸詰め(14)なんて言ってね。松前藩の人と島津藩の人が出会っちゃった初めての街なんだから。一個のローカルから抜きん出る文化ってそういう事でしょ。そういう中から出てきた、写楽や北斎のデフォルメなんて凄いでしょ!」
 昼間の首都高速並に停滞する俺の思考回路は、江戸文化の成り立ちに感心しつつも、到底S-kenを刺激する論客とはなれず……。熱を帯びるてきた事は重々知りながらも、その話の腰を逆エビ固めで唐突に折り、現在メインの仕事、プロデュース業へと強引に話を移行した。
 割烹「さいき」の上手い酒と肴のおかげか?前後の辻褄が合わない無勝手流な進行にも思いの外、師匠の機嫌は良さげだ。
 「誰も知らない才能をいち早く見つけてくるS-kenですが、そのアーチストがいざ、売れるって兆候が出てくると、意識的かどうかわからないけど、また新たな才能を探す散策に出ちゃいませんか?」
 無勝手流を飛び越えて、理不尽にも値する俺の言動を達観するように、軽い笑いを浮かべながらS-kenは、意識的なのか?僅かな間を取ってからゆっくり答えた。
 「それは、いつも言われたよ(笑)『S-kenは流行を追わない』ってね。唯一『Jazz Hip Jap』(15)の時だけは『流行とS-kenが合致した』って誰かが言ってたな〜」と、急にS-kenの見つめる視点が遠くなったのに気づき、この希人の独特なビジネス感覚を急に知りたくなった。
 日々貧困な俺は、自身の毎度な金欠の言い訳そのままを、敢えてドサクサ紛れにブッ放してみた。
 「ブッチャケ、売れてメジャーに成る事って粋じゃないとか、カッチョ悪い事だと思ってません?」
 S-kenは、サッっと背筋を伸ばし、はすに構えた体勢を入れ替え「売れようと思ってますよ!常に!でも、そういう事は結果であって、大切な事は、『快楽』!快楽とは、今、自分が楽しんでる事!」
 その純度の高いファイナル・アンサーは、酒にくたびれた俺のレバーに直撃。後の言葉は続かなかった。(感動しました……)
 心の奥の、たまーにしか書き込まない黒皮の手帳に、そのフレーズを認め、俺は勝手にインタビューを終了させた。(このFAを引き出せば、結構、デキル!インタビュアーの仲間入りじゃないの!?)と自分を励まし、追加した熱燗の徳利の数だけ、後は音楽話中心の無礼講に自動的にチェンジした。
 別れ際、ヒッピーの偽善的自然回帰を、全面的に否定的したS-kenが愛車にまたがりながら、こう呟いた。
 「自転車ってのはさ〜、四季の匂いを直(じか)に感じるから良いんだよね〜」
 程なく、S-kenの後姿は小さくなった。
 もうすぐ還暦を迎えるはずのその背中は、幕末太陽傳の若き日のフランキー堺演じる佐平次の疾走する後ろ姿で有名な、あのラストシーンと重なった。
 粋で鯔背で、そしてどこまでも刹那な背中だった。
 「四季の匂い」か………、これも心の奥の黒皮の手帳にメモるとするか。

○今回のゲスト

写真:五十嵐和則
S-ken(ミュージシャン&音楽プロデューサー):プロフィール
PE'Z、ボニーピンク、スーパー・バター・ドッグ、DJクラッシュ、マンデイ満ちる等、自作品を含め100枚以上もの斬新なCDを世に送り出す、東京クラブミュージック・シーンを代表するプロデューサー&ミュージシャン。日本初のパンクムーヴメント「東京ロッカーズ」を始め「Tokyo Soy Source」「カメレオンナイト」「東京ラテン宣言」等、伝説のイベントも多数オーガナイズし、その鮮度は他の追従を許さない。現在は秘蔵っ子である中山うりのプロデュースに奔走しつつ、自身の集大成となるべくプロジェクトを水面下で密かに進めている。海外での高い評価は言うに及ばず、DJ、作家、編集者としての氏に傾倒するファンも多数存在する。

(1)幕末太陽傳
1957年封切りの日本映画を代表する傑作。名匠、故川島雄三監督作品。古典落語「居残り佐平次」「品川心中」等を脚本のモチーフに、当時の品川の風情を知るのにはもってこいの作品。S-ken本人は自身のルーツを語るとき、漫画家ジョージ秋山のコミック「浮浪雲」を例にする事が多い。
(2)未来派
1909年、イタリアの詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティによる「未来派宣言」が発端となった芸術運動。伝統的芸術観念にない、機械文明や乗り物等、スピード感、事物の動き等を表現に取り入れたのが特徴。
(3)九鬼周造
(1888〜1941)日本の哲学者。東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、欧州に8年間留学。帰国後、マルティン・ハイデンガーの哲学を広めると共に、日本の美意識を再考した「『いき』の構造」等を発表。
(4)永井荷風
(1879〜1959)日本の小説家。東京高等商業学校(現一橋大学)付属外国語学校清語科中退。その後落語家を目指すも挫折。アメリカ、フランスに滞在。帰国後は耽美主義の作風で文学界に君臨する一方、日本近代主義を嫌悪し江戸文化に傾倒した。
(5)自由通りの午後
1971年、参加曲5万曲の中から選ばれポーランド音楽祭日本代表曲となったジャスト・ヴィンテージな名曲。当時アマチュア作曲家だったS-kenがオーヴァーした記念碑的楽曲でもある。オリジナル歌手はアイ・ジョージ、作詞は松山猛。小西康陽の秘蔵っ子、野本かりあによるガールズポップ的カヴァーで近年再注目されている。
(6)パンクロック
ここでいうパンクロックとはニューヨーク・パンクを指す(商業的、認知度的にもロンドン・パンクの方が優位)60年代中期のガレージロック(MC5、イギー・ポップ&ザ・ストゥージズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド等)の蒔いた種が70年代萌芽し、ラモーンズ、テレビジョン、パティ・スミス、ブロンディー等を生み落とす。ロンドンパンクに比べ文学的匂いが強いのが特徴。
(7)東京ロッカーズ
1978年、六本木「S-kenスタジオ」を拠点に始まった日本で最初のパンク・ムーブメント。命名もS-ken本人。今回のインタビューで分かった事だか、フリクションのレックとは、実は既にNY時代に面識があり、S−kenにとっては、東京で再会したと言うのが正解らしい。
(8)クール
冷静さを帯びたカッチョ良さ。ジャズマンのスラングとしても有名。アフリカ系アメリカンのスラングが発祥。
(9)ヒップ
ジャスト「今」な感覚。クール同様アフリカ系アメリカンのスラングの代表選手。
(10)粋筋(いきすじ)
江戸町人の美意識を表す言葉「粋」を、品川スラングとしてアレンジした模様。身なり振る舞いが洗練され、カッチョ良いこと。人情もあり遊びも熟知し、貧乏臭くない。「粋筋」は「その筋では有名な」に見られる様に一種の「粋道」と思われる。
(11)ヒッピー
60年代後半アメリカの若者を中心に生まれたムーブメント。象徴的な男性の長髪に、ラブ&ピース、自然回帰、フリーセックス、反戦等、当時の既存価値観に対するカウンター思想というのが大きな特徴。
(12)レイブ
イビサ、ゴア等から世界に広まった野外パーティー。DJによる4つ打ちの単調なダンスミュージック(トランス)にドラックというのが基本形。90年を境に日本でも夏期を中心に多くのパーティーが存在する。ヒッピー・ムーブメントとの類似点も非常に多い。
(13)コミューン
ヒッピー・ムーブメントの中で盛んだった小規模共同社会。自然回帰を旗印に自給自足の生活を理想とした。
(14)江戸詰め
参勤交代、幕藩体制下、諸藩は大名の江戸在住の為の江戸屋敷を設け、そこに帰属する人達や人質として滞在する奥方等を江戸詰と呼んだ。
(15)Jazz Hip Jap
1992年と93年に発売されたS−kenプロデュースによる伝説のコンピレーションアルバム。竹村延和、DJクラッシュ、大沢伸一、JEFF BROWN、エル・マロ、マンデイ満ちる等、今現在では、到底現実不可能な豪華なラインナップ!

○次回ゲスト
松本玄人(アートディレクター)


イラスト、インタビュー&文
SOHMEI ENDOH(ソウメイ・エンドウ)
プロフィール
1960年静岡県生まれ。DJ、音楽雑誌編集、ほぼニートな自称芸術家等、超不安定な職業を転々とした後、1985年よりイラストレーターを生業とする。木版画を中心に、CDジャケット、雑誌、広告等で生計を辛うじてたてる。1990年より連載開始した「カシャ」(竹書房)を切っ掛けにライター業も兼ねる様になる一方、DJ、飲食店プロデューサー、イベント・オーガナイザー、店舗空間デザイン、撮影美術家と相変わらずの「合わせ技一本!」な毎日。自身のジャンクな生活態度を省みず、オーガニックな生活を真摯に提案するフリーペーパー「88」の表紙画で、その存在をかろうじて忘却されずにいる。オフィシャルサイト(http://www.c-channel.com/c00201/)ブログ「黒猫の単語」(http://sohmei.exblog.jp/)
# by sohmeiID | 2006-11-12 05:36 | 連載「ヴィンテージマン」
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